『64‐ロクヨン‐』後編をみた!

64後編イメージイラスト

この絵ね、ふざけてるワケじゃなくて、真剣にかいてこう。まじめのまじめの大真面目に描いてます。勝手に削除してくるから、しょうがないんだよねー下手でも自分で描くの。

64の後編を映画友達のWさんと見た。
前編のレビュウ時に、マスコミが警察からの情報をもらうばかりで、自分で取材しないのは変じゃないか、そんなで権力監視できるのか? という疑問を提示した。

これはわたしの独自疑問ではなく、ジャーナリズムについて真剣に考える人たちからの受け売りだ。受け売りといっても、納得する考え方なので、わたしも機会あるごとに参照している。

#最近のだと、こういうのが参考になる。→→新聞・テレビが逆立ちしても「週刊文春」に勝てないカンタンな理由 舛添騒動から考えなければいけないこと

もっともこの映画の場合、記者クラブの記者がやけに乱暴だ。いくら広報官とはいえれっきとした警察官の腹にパンチくらわせたり・・・・
そのおかげで、前出の疑問は後ろにしりぞいたんだけど。

(ひょっとして◯馬県だと、新聞記者が警察よりえらいのか?)

が、その件はともかくとして、昭和64年の誘拐事件が時効になりかけた平成14年、あらたな誘拐事件が発生し、一地方の群◯県に、中央の警察とマスコミが押し寄せてきた。
そのため、そっちの喧騒が本編の核のひとつとなる。

中央ったら、言わずもがな、東京のことである。
登場人物たちの心理に、中央vs地方のプライドが強く加わっていく。そこがまた面白い。

にしても、◯馬県の記者クラブを占拠する東京の記者たちの乱暴で下品なこと!! けど、現実はこんなに警察相手に詰め寄ったりとかするのかなぁ? どうかなのかねぇ? もしするなら、立派だけど。
まぁフィクションなのだから、それは傍に置いておくとして。

前編のレビュウのときに当方が予測した犯人。これは、やや掠ったものの違っていた。
それと、作品が何をもって「7日間しかなかった昭和64年」にこだかったのか、という疑問については、手応えがあった。
つまりこうだ。

どれだけ日本中が天皇の崩御と新しい元号に興奮していようとも(それがゆえに、この期間に起きた誘拐事件はまともに報道されず、関心ももたれなかった)、事件の被害者、事件を追う者(そして事件を起こした者も)にとっては、そんなのは論外。重要なのは事件であり、誘拐された子どもであり、その命である。あるいは事件解決に向け職務をまっとうできることだ。さしもの天皇もその前では、かすみきった存在と化すということ。

そういった、一個人の、一個人が生きるということの、何を大事に思い、何をかけがいのないものとして生きるか、ということ。
文学作品や芸術作品の中にしかないと思われがちな(ひょっとして、それにもなかったりして)反骨のたましい。

ただ、それは前面に出ているわけではない。
ただただ感じたのは、子どもを誘拐され殺された親のくるしみだ。
そういう目にあった人の気持ちを、万分の一、億分の一、兆分の一くらい共有することができた。もちろん、自分から共有したいとは、なかなか思わない気持ちであるが、期せずして、思いを馳せることができた。

そして、どうしたら、こういう苦しみがこの世からなくなるのか? という果てない疑問も。

川辺での格闘の末、広報官がこの答えを問い質したときの、犯人の言った答えが印象的だった。

☆ ☆ ☆ ☆

これ以上、説明すると、犯人を言ってしまいそうなのでこれくらいにする。


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