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カテゴリー: レビュウ

読んだ本、観た映画、聴いた音楽の感想文をつづります。エンタメや社会というカテゴリとかぶるときは、カテゴリをふたつ、みっつと重複して設定しております

映画カケラを見た

記事の分類:レビュウ

奥田瑛二の長女・安藤モモ子の初監督作で、原作は桜沢エリカによる少女コミック「ラブ・ヴァイブス」。主演は「愛のむきだし」の満島ひかり、中村映里子。平凡な女子大生のハルは、セックスにしか興味のない彼氏との心の通じ合わない関係に疑問を抱いていた。そんなある日、ハルは喫茶店で、人の身体のパーツを作るメディカルアーティストのリコに出会う。ともに時間を過ごすうち、リコは大胆にもハルに好意を寄せるが、ハルはそんなリコに戸惑いを隠せずにいた。

via:カケラ : 作品情報 – 映画.com

「特集 満島ひかりがみたい!」で観た第2作目。

ダランと弛緩しながらお茶の間で見始めたこの映画、途中で何回も家の模様替えしたくなって困った!! メディカルアーティストにしてクリーニング屋の娘にして、いきなし見知らぬ女子にアプローチしてしまう「りこ」の部屋のステキなこと!! 方や、惚れられてしまうハルのぼろいアパートのインテリアも金をかけずにここまで楽しくまとまるんだというお手本になっていて。

見てるのそこかよ? と言われそうだけど、すぐに真似したくなるくらいに自分にとっては魅力的なポイントだ。
もうひとりかたせ梨乃演じる山城さんのお部屋もステキなんだけど、あちらは金がかかっているし、植物だらけでやや偏執的。わたしも植物だらけにしたい気持ちはあるけど世話が大変だから、やれない。

ハル(満島ひかり)にセッ○スを求めるばかりでそれがすむとあとはどうでもよくなるのを隠そうともしない了太の団地の一室も、意外とステキ。

そんなで登場人物の後ろばっかり見ていた笑

タイトルの「カケラ」は、失った身体パーツ–指やおっぱい–という意味合いもあるだろうし、それぞれの完全ではない心の状態を表しているかもしれない。

インテリアも映画中のカケラのひとつ。でもカケラでもいいじゃないか、輝いているならば。人は完全な愛、完全なセックス、完全な関係、完全な身体と、あれこれ求めるけれど、一個でも輝いているならば全部でなくていい。<もともと月は一日以外はぜんぶ欠けている(via:作中)>。

好きだなーーと思ったシーンが、ちょうど宣伝スチールになっていた。ハルがリコのお尻の肉をプニプニ、プニプニとつまんで遊ぶところ。体って面白いなって思った。セッ○スばかりが能じゃないというか。自分も誰かの体のお肉をつまみたくなった!!(^肉^)

+。…☆。+。…☆。+。…☆。+。…☆。+。…☆。+

※当方、こちらの作品世界に無縁な年代ですのでズレた感想かと思われますけどご容赦を……

夏の終わりという映画を夏のはじめにみた

記事の分類:レビュウ

瀬戸内寂聴が自身の体験を基に描き、100万部を超えるベストセラーとなった同名小説を、満島ひかり主演で映画化した大人のラブストーリー。『海炭市叙景』で高い評価を得た熊切和嘉監督が、小林薫演じる年上の男と、綾野剛演じる年下の男という2人の間で揺れ動くヒロインの心情を丁寧に描き出す。

昨年、テレビドラマ『ウーマン』を放映していた時期、「主役の満島ひかり、いいよ」とさんざん教わり、『ウーマン』観よう観ようと思いつつ一度も観れなかった。以来ずっと気になっていた満島ひかり。それがこの7月、日本映画専門チャンネルが特集を組んでくれたのでやっと見れた。題して「特集 満島ひかりがみたい!」だ。6本放映した中の『夏の終り』は、最初に観た一本。

この映画の特徴は、ゆっくりした展開と、会話の極端な少なさと、昭和30年代の風景の味わいだ。あんまりノロノロしているので眠気に幾度も襲われ中断してはまた見始めるを4回繰り返したので、最初の方に何があったのか忘れてもうた。
軽部真一の解説付きなのだけど、ゲストになんと瀬戸内寂聴さんその人が出て来て作品のなりたち、背景、本編の感想を述べる。ぶっちゃけた話、本編よりそっちのが面白かった。瀬戸内さんは満島ひかりについての感想を聞かれて「すばらしい女優さん、命がみなぎっている」「満島さんでもった映画」みたいな事を言っていて、まったく同感だった。

で、女性映画的かというとそうでもない。例えば当時の女性が置かれた状況を反映しているかというとそうでもなく、瀬戸内寂聴さん個人の生き方を描いている。つまり何らかの女性問題が浮き上がってくる、ということな特にない。もとより作家を目指し自立した自己をもっていた瀬戸内さん自身がモデルなのだから、そうなるのかなと思う。わかりにくいのは映画中では(そして小説中でも)瀬戸内さんは染色家になっている。解説でご自身が言うには、自分がモデルの私小説と思われたくなくて染色家という設定に変えた、という。

小説はそうとしても、映画にするときは作家に変換してくれたらよかったのにと勝手なことを思った。年上の売れない純文学作家の小林薫との「愛」を断ち切れないのって、本人も小説を書いていたからってのが大きいのじゃない? はたで観ていて、どうしてあんなにステキな綾野剛を選ばないんだと不思議で不思議でしょうがなかった。綾野剛じゃダメである感触が伝わらないというか…

だからって小林薫演じる小杉慎吾が魅力がないとかじゃない。というか見事にこの役にはまりきっている。瀬戸内寂聴さんも慎吾のモデル(である実在の作家でかつての恋人)に仕草までそっくりであると、大絶賛していた。そのモデルを知る由もないわたしでさえ、これはそっくりに再現されているに違いないと思わせる実在感だった。それだけになんかね…同じ作家としての女の姿を見たかった、というかね…

年上と年下のふたりの男性の間で揺れ動く女性、という設定から連想するような甘やかな感じはほぼ皆無。苦み渋みが多く、いたってストイック。瀬戸内さんが最後の最後に解説するに、年下男性の方は、のちに家庭を持ったのに瀬戸内さんへの思いを引きずったままで結局自死を選んだ、という。なんかもう軽いショック受ける話だった。

そこらの実話は脇に置くとして。りんとした和服姿、細い指で鯛焼き?をハフハフと食べる姿、整然と片付いた和室に座す姿など、満島ひかりファンならば必視聴なのは間違いなし。わたしもファンになりつつある自分を感じている。

【証言】奪われた故郷—あの日[3.11]、飯舘村に何が起こったのか

記事の分類:レビュウ

『【証言】奪われた故郷』を読んだ。

左:入植10年目に牛を手放すことに追い込まれた酪農家の田中さん(撮影:森住卓)/右:家族同様の牛を屠場に送り出す長谷川家

 

……つらい。ほんきでつらい冊子。
とくに写真のp.34からp.35のあたりはもう涙出過ぎてくたびれた。
読んでるだけでそうなのだから、「こんなことなんで起きたんだ? 世の中にこんなことってあるのか」と思いながら、家族同然の牛を屠場に送り出した著者たちのつらさは、わたしの100倍、1000倍、1万倍…

それでも、このつらさを味わうことで得たものもあった。

自分が食べているものが生きものの命であると、真剣に思い至ったこと。

不肖annaka、自分史上もっとも意義のある気づきだと、いばる。

いばるようなこっちゃないけど、それくらいでもしないと、気持ちが落ちてくばっかだ。

福島第一原発、20キロ圏内の世界

Farm Sanctuary 希望の牧場~ふくしま~ Official BLOG: 風化しないように、発災年の動画を再UP

↑上は震災間もない頃の映像だ。

原発20キロ圏内は警戒区域となり、人々はすぐさま立ち去らなくてはならなくなった。家畜はじめ動物たちは置いて行かれ、家畜は餓死し、犬や猫はとつじょいなくなった飼い主を探し、食べ物を探し求め悲惨なありさまになってしまった。YouTubeにもいくつかあがっている。中には動物をたすけるために区域内に入って活動する人々もいて、救われる。

上記リンクは20キロ圏。
飯舘村はゆうに30キロ離れているので圏外のはずだが、放射性物質は同心円には降り注がず、長谷川氏の言う「たんこぶ」状に飛散しており、計画的避難区域に設定されてしまった。
人だけ避難し、牛は置いていけとなったのだ。つまり、20キロ圏内と同じ運命を牛たちはたどりかねなかった。

長谷川氏らはそうさせないために、役所、国相手にかけずりまわり、牛の犠牲を最小限にとどめた。
その結果が屠場に行くという事で、それが食用になる(無駄死にではなく)ことなのか、そうではないのか、実のところわたしにはよく分からない。それでも、20キロ圏のような地獄でのたうちまわらすような残酷な仕打ちを牛たちにしないですんだ。そのかわり、飯舘村から牛はいなくなり、酪農家なのに牛を失った。

Youtubeで比較的最近の長谷川氏を見たら、長谷川氏が今一番言いたいのは、あの時何が起きたのか(事故もそうだが、その後の対応。SPEEDiを隠したことや高い線量が出ても「安全」「安心」と大学教授らが説得に来て、その直後に計画的避難区域に設定されたこと。その間被爆し続けたこと、など)、それを検証してほしい、忘れないでほしい。

☆ ☆ ☆ ☆

この冊子からやや離れるが、リンク先「希望の牧場」の場合は、フクイチから14キロの位置であり、ほおっておけば動画、画像の通り、家畜たちは放置され餓死するところだった。あるいは「殺処分」になるところだった。その命を殺処分はさせず、意義あるかたちで守ろうと、奮闘しているのが希望の牧場だ。

吉沢牧場長の想いと意地。 Documentary 光影寫眞

これは牛の問題ではなく、牛の命を通した人間の問題と、牧場長は言う。

希望の牧場の牛は、生きるという事について、命について、食べるという事について人々が(特に子どもたちが)考えるうえで、最強の教材になる。

大人だってろくに考えたこともなく漫然と食べているのだから、ほとんどアホみたいなものなのだ。

食や命について考えれば、内側から綺麗になる※し、聡明な子どもに育つだろう。お受験だ偏差値だばかり言っていたら、昭和と同じような人間が再生産されるだけだ。

そっち方面(真の教育方向)でも、牛さんたち、生きれたらいいなー♪♪


読んだダイエット本の影響で、唐突に言い出してて分かりづらいですね・・・・

青天の霹靂を映画館で観た

記事の分類:レビュウ

薄汚れたマジックバーで日々働く39歳の売れないマジシャン轟晴夫(大泉洋)は、幼い頃、母に捨てられ、父とは10年以上絶縁状態が続いていた。そんなある日、晴夫のもとに警察から電話が入り、父の死を知らされる。遺骨を抱え、ホームレス生活だった父の住み家のダンボールハウスに来た晴夫は自らの未来を重ね、「なんで俺、生まれてきたんだろう」と絶望に暮れるのだった……。そこに青天の霹靂――青空に一閃の雷が光り、晴夫を直撃する。気付けば晴夫は、40年前の浅草にタイムスリップしていた。浅草ホールを訪ねた晴夫は、スプーン曲げを披露して一躍人気マジシャンとなっていく。そんな中、同じくマジシャンをやっていた若き日の父・正太郎(劇団ひとり)と、彼のアシスタントである母・花村悦子(柴咲コウ)と出会った晴夫は、ひょんなことから正太郎とコンビを組むことになる。やがて、悦子の妊娠が発覚、晴夫の出生の秘密が次第に明らかになっていく……。
#引用元Movie Walker > 青天の霹靂

感想の類はネタバレしちゃいけないとビクビクするけれど、こうやってオフィシャルがバラしまくっているのだから、もう、全部言っちゃうよ!!と開き直りたくなる。

とまれそれは出来るだけ避けたい。でも保証はできないので、この先は観てから読んでください!!

本題。
冒頭は、泥酔した客相手にカードマジックしながら述懐にひたるマジシャン晴夫。述懐はカードにからめ、決してエースやキングではない自分を自嘲してみせる。

店がひけて客のゲロの後始末をする若い店員との会話では、俺なんかしょうないんだよ、生きてる意味なんかないんだよ、と物悲しくも憐れな生い立ちを匂わす。場面は代わって汚い自室。映画画面に映し出すには本当にリアルに汚い部屋で、ゴミいっぱいのレジ袋にうずもれながら、レトルトカレーを飯にかける晴夫。でも飯は見ていない。見てるのは テレビだ。

テレビには若手のトランスジェンダーもどきマジシャンが映っている。晴夫は不味そうにレトルトカレーを口に運びながらさらに不味そうな顔になって、吐き捨てるように「くだらない」という。くだらないと吐き捨てた理由はまた後で明かされる。

昼になり、あるところから電話がかかってきて、鉄橋下の広い川岸に向うことになる晴夫。

川岸の草原は美しかった。そこに建てられたホームレス小屋も。
いつまでもこのままこの男の人生を、いやさ、人生なんて大げさなもんじゃなくていい、この男の日常をもっと見ていたい。レトルトカレー以外に何を食べるのか、風呂はどうしているのか、部屋には他にどんなグッズが置いてあるのか、そのなかで何をまた述懐し、何を自己憐憫し、何が何も起きないかをずっと見ていたい。

という気持ちにひたっていた矢先、悪い予感はしてたけれども、バーーン!! と、

青天の霹靂が、晴夫をおそう。

なんで青天の霹靂なんか起きるんだよー起きないでいいよーと、ガッカリした。

陳腐なSF展開になるのは、予備知識はなくても予測が付いた。
タイムスリップしたのだ。
川岸の草むらで目を覚ました晴夫は、そこが70年代の日本であることを、そばに落ちていた新聞で知る。タイムトラベルしたときにだけ新聞というやつはべらぼうに役に立つのだ。

しょうがないので気を取り直し、続きを見ることにした。

結論を言えば面白かったので、人にも薦めている。
ただ、細かいことを言えば、大泉洋の顔演技にあまりに多くの事を依存しすぎじゃないのかなあ。そのコにとって母がどんな存在なのかを説明する熱演部分は、時間が長いし、ぜんぶ顔。ここで感動させたいのはわかるけど、やりすぎてわたしはダレた。あと歴史上の同日同時刻に同一人物が存在しちゃいけないのが、(サイエンス)フィクション 界最大の不文律なの、監督は知らないのかなあ。気になって気になって「あんたがいると赤ちゃん、死んじゃうか生まれて来れないよ‼︎」と無駄にハラハラしちゃった。

あとこのラストだと、本当に母が出て行ったケースの場合ほんきで救われない。実際の人生の場合はこれでもいいけど、作品としては引っ掛かりが大きい。素直に感動しづらい。そんなで最後のセリフもわたしはちょっとピンとこなかった。このテーマならば、両親のなりゆきよりももっとスパンを大きくとって「先祖」に着目した方が柔軟に展開できたような気が、しなくもない。

嫌韓本をためしに読んでみた『もう、この国は捨て置け!韓国の狂気と異質さ』

記事の分類:レビュウ

hontoの電子書籍過激なタイトルの本である。普段なら敬遠しているかもしれない。
わたしは先月、渡来人がもたらした浪漫についてupしたため、韓国に興味をもった。

対談しているふたりは、ネトウヨ?と言われる嫌韓の日本人というわけではなく、れっきとした中国人と韓国人であるから説得力はすごい。(現在は日本に帰化している)

読めば読むほど、韓国とは関わらない方がいいと思わずにいられない本である。
ことに中国も韓国も歴史は「つくるものであって事実は関係ない」「歴史はこうあるべきが優先で事実は関係ない」などは、頭が痛くなる話だ。まして、韓国の反日感情は反日というよりも怨日であり、昨日今日に始まったものではなく、また太平洋戦争や従軍慰安婦問題から始まったわけではなく、もっと古く根の深いものである、などのくだり。

こんな話を聞くと、ほんとにどうしていいのか分からなくなる。

そのほかで特に韓国のだめだなあと思った部分は、いきすぎた儒教精神。
たとえば、日本なら年をとっても、好奇心と向上心を持ち続け生涯学習に取り組むなど、知的であろうと努めることは可能であるし、実際そのようにしている人は多い。が、韓国では、「老人は何でも知ってて当たり前、老人が勉強するなどあり得ない」という。

ただ思い出すと、わたしが子どもの頃の日本も今の韓国に似た老人の位置づけだった。各界からの啓蒙活動が長年あって、生涯学習という考えが定着したのだと認識している。

そういう考えを定着させないと、今の韓国のように、子どものころのエリート教育がすべて、知的階級はジャーナリストなどの一部に限定され、それ以外は侮蔑の対象になる、といった偏ったことが起きる。この本によると、韓国人の偏狭な差別意識の対象は多岐にわたっていて、たとえば「島」を軽蔑する発想など、聞くに堪えない。(著者の呉氏も済州島の出身であるため、たいへんに差別されたらしい)

人ごとながらいい加減にしろ韓国人と、腹が立った。

それでも最後は丸く収める対談かと思ったら、どこまでも祖国に絶望しきっている両者らしくて、タイトル通り「日本はクールジャパンに代表されるような優良コンテンツを持っているのだし、おもてなしなどの文化もすごいのだから、世界を相手にするべきで、韓国には関わらないでいいんです!!」と、韓国を見限る姿勢にゆるぎなし。

それでも石氏の忠告として、今中国がねらっている海洋戦略(詳細は本書の最後の方)はアジア諸国が警戒しなくてはならないものであり、その一環では韓国とも適宜手を結ぶ必要があると説く。(パク・クネ大統領が中国寄りとなり反日を打ち出したため、困った話なのであるが)。そこらへんが、気になることはなるとわたしは思った。

ところで当方、最近カイカイ反応通信にはまっている。韓国人は昔も今も、日本の姿を映し出してくれる。なんて有難いんだと思う。
それに、この本の予備知識を持ちながら読むと、カイカイがまた一段と面白かったりする。

それにこのお二人が言うほどには、話の分からない韓国人ばかりではないのでは? とも思う。(けっこう面白い韓国人が多い) 韓国のかたがたのことは、あえて好きにならないでもいいから、嫌いにはなりたくないなあと思った。