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タグ: ネット

著作権について:追記あり

記事の分類:未分類

WordPress(在アメリカ)がやっているのかレンタルサーバーがやっているのか、他のシステムがやっているのか不明だけど、このブログに上げてた画像が表示されなくなる。
たとえば、『バクマン。』の感想ページに使っていた『バクマン。』の宣伝用の写真。あるいはずっと前だと『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の宣伝スチール写真とかだ。

そう、表示されなくなる理由は、著作権だろう。わたしは著作権法に抵触したのだ。

PART2『橋本治という立ち止まり方』を読む、という立ち止まり方

記事の分類:レビュウ

前回は記事タイトルの通り、いろいろ立ち止まって思い出していた。

その続きから入る。

『だっくす』はその後『ぱふ』になり、『ぱふ』になってからもしばらくは面白かったと思う。

橋本氏の方はその後、少女漫画評論ーーーというか少女とか女子高校生ーーーという枠から飛び出して、次々にいろんな本を出して時の人になっていった(「時の人」に果たしてなっているのか判然としない不思議さの人なのだが)。小説も書いていたし、読者啓蒙型のエッセイや評論も多かった。わたしも全部ではないながら、結構な数を読んだと思う。

しかし『だっくす』の夢も潰えたことだし、だんだん橋本治自体も古典へ向かっていったというのあり、いつの間にかわたしはこの人のことを忘れていった。

で、今回だけど、林芙美子の本を探していて「は行」の棚でみつけた。

「は行」の棚は林真理子ばかりがずらーっと並んでいて、橋本治のはこれ一冊。

林芙美子にいたっては、すっかり過去の作家という位置づけなのか、影も形もない。
せめて全集の棚とか、日本文学の棚とか、昭和の棚とか、九州の棚(はないか)に置いてあって至極当然の作家だと思うのだが。
いったい、誰が、どういう基準で公共の図書館に並べる本を選んでいるのか?
単に、売れてるかどうか、なのか。利用者からのリクエストが多いから、なのか。

かなり腹立たしい事態だと思っていたら、ちょうど似たような釈然としなさ加減が、本書に出てくれていた。

第二章「政権交代の二〇〇九年頃には、政治のことを考えていた」の、<ネットの世界に「えらい人」はいないんでしょ?>だ。

我流に要約させてもらうと

  • 活字の世界には「売れないけどいい本」というのがある。
  • しかしネットにはない(氏はネットをしないのでそう推測している。当たっている)
  • なぜ活字の世界にはあるのか? 活字の世界には「いい本」とジャッジする権威があるからだ。
  • 氏は「権威なんかなくていいと思っている」
  • その点で氏の頭の中はたぶんにネット的である。
  • が、権威がなければ、何がいい本か各人がジャッジしなくてはならない。
  • つまり王政が倒されて共和制の民主主義になった以上、各人責任をもった政治行動をするように、ということだ。
  • が、氏にとって活字文化というのは「王政の時代の血を色濃く引くもの」
  • それでいいわけでも悪いわけでもなく、そういうもの、という位置づけ。
  • 王政が倒されて共和制の民主主義になると、その先が大変だなぁという話でもある

もとより、どんなテーマであろうと自分の頭で考え、既成概念や権威の威信に縛られず縦横無尽に論を展開してきた氏であるから、最初から彼が「ネット的」だったのは、今思い出しても本当だ。

そのネット的だった橋本治がネットを、つまり、ブログもツイッターもやらず、さらにはネットにつなぐこともないのは面白い。
氏の友達(に当時見えた)である糸井重里の方が、ネットを根城にしている感があるのと対照的だ。
コピーライターという、他人に影響を及ぼすことを元から仕事としてきたから、糸井氏の方がネットと直結したのかもしれない。
わたしに言わせれば、どう考えても逆であるべきなのに、橋本氏はネットに存在していない。

もっとも存在されても困るかも・・・・

やたらと説得力のある最強のことを連発されても、ほかの人が言うことがなくなって指をくわえていることになりかねない。

第一本人、誰にも影響なんか及ぼしたくないし、責任もとりたくないし(だから本の帯の推薦文も書きたくないし、賞もほしくないし)と、しきりに本書に書いてて受けた。

そんなで、モンダイはネットだ。そして王政が倒れた後の民主制だ。それは、放っておけば林真理子の本ばかりが図書館の棚に並んでしまう事態をどうするか、でもある。

そして、その事態は着々と進行している。

あーどうしたらいいのだー

 

◆次号につづく(といいな~)(万一続かなかったらゴメン)

 


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