ペリー提督の黒船

ということで、先日の疑問の続きを書こう。

明治、大正、昭和20年までの人は「どっからどう見ても人間である天皇のことを『現人神(あらひとがみ)と皆で本当に信じていたのか? 信じていたならその理由を知りたい。」

これの答えであるが、『天皇と東大』を読んでのわたしなりの理解の範囲であるが、「信じていたともいえるし、いえないともいえる」である。まあ、そりゃそうだろう、というつまらない結論に見えるが、案外とこれが単純じゃない。まず、明治時代の人々であるが、現人神とは信じてない。それどころか、天皇を揶揄するような発言はおおらかに発生した。さらには、明治天皇を明治維新の時に京都から東京へ連れてきたわけだが、その後、明治天皇には教育係がついて、皇帝教育のようなことを行った。しかしこれはうまくいかなかった。明治天皇の思想信条は昔ながらの「忠信孝悌(ちゅうしんこうてい)」で、これをもっとも尊ぶ価値観の域を出なかったからだ。

教育係をしたのは、明治時代のトップエリート仲間たちであるから、日本の初期の主導者たちは天皇のことを人間的によく分かっていたはずだ。なので、神とは思っていない。

次のキーワードは『大日本帝国憲法』だ。明治時代は西洋においつくために皆が一生懸命だった。西洋に追いつくためには何よりも教育だと考え、東大が生まれた。下に年表を作ったとおり、明治維新から10年もたたないうちに東大は設立された。ちょっと詳しくいうと、東大の中でも医学部が一番最初だった。それまで権威をもっていた東洋医学(漢方など)では治せない病気も、西洋医学を普及させることで(天然痘の種痘など)解決していった。この動きと並行して設立されたのが医学部なのだ。

しかし医学だけでは国は発展しない。次に必要なものは何か? 各種の法律だ、それを作る機関だ、国会だ、憲法だ、といろいろあった。その中で参照されたのは言うまでもなく西洋のそれらである。大日本帝国憲法もドイツの憲法を参考にして、かなりのハイスピードで一生懸命作った。

ところでこの大日本帝国憲法 – Wikipedia、あらためて確認してみたところ、「天皇は神」とは書いていないのである。てっきり強めに書いてあるのかと思った不見識な自分なのだが違った。ただし「第3条 天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵ス(おかす)ヘカラス(べからず)」とは書いてあり、全体的にいえば、天皇の特別な神聖性はゆるぎなく書いてあるので、結果的にはほぼ神、みたいな感じだ。

この憲法の制定の過程では新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があった。それでも発布に際しては国を挙げた奉祝ムードだったらしい。ちなみに福沢諭吉も「人民の地位はどうなっておる」的に賛同はしていないし、他の知識人?もそうである。(ここらのソースは上のWikipedia) そんなくらいであるから、あからさまに「天皇は神」と書いてしまっては、とても成立しなかった可能性がある。当時のインテリを馬鹿にしてはいけない。先進的な思想をたくさんもっていたので、さすがにそういうのはだめだったろう。

ちなみに福沢諭吉は東大の学者ではないため、この本にはあまり出てこないのだが、たまたま韓国人「日本の近代化の出発点である明治維新と脱亜論について客観的視点で書いてみたいと思う」 : カイカイ反応通信 みたら、福沢諭吉のことを「日本の右翼の土台となる人物」などと、大誤解していた。おいおい、違うぞ!! 「日本の右翼の土台となる人物」ならば、他にたくさんいる。まずもって東大法学部の中にいる(余裕があったら後日に書こう)。福沢さんは、西洋かぶれの方なので、右翼というよりは左翼だ。

日本の左翼は、もともとは「西洋かぶれ」が原点なのだ。西洋に追いつこうと、科学、哲学、政治理念などを必死で取り入れた。この流れが最初にあり、「民主主義」などもそうである。そこへ途中から(明治の後半)西洋から「社会主義、共産主義思想」も入ってきた。社会主義思想は現政権をおびやかすものでもあった。そのため、右翼は嫌った。が、右翼が必ずしも現政権や、財閥などの富裕層に牙をむかないわけではないので、複雑だ。ともかく、経済の発展とともに出現した「労働者階級」に強くアピールし、左翼は、こちらにも合流した。

そんなで、単純化して説明するのは難しい。が、印象としては、先か後かといえば、右翼より左翼の方が先なのだ。急激な西洋化の中で足掻き苦しむ、日本人の自尊心回復のための悲鳴が右翼を生み出したのだ、と感じた。

明治維新から戦後までの年表

「*y=*年間」上の年からの経過年数

年代 *y 出来事
1853 ペリー来航
1862 9y 【主張】海軍をおこすべし by 勝海舟
1868
M0
6y 明治元年
1875
M8
7y 『国体新論』の出版by加藤弘之
1877
M10
2y 日本で最初の大学、東京大学が設立。初代総理(学長)は加藤弘之
  慶応大学
早稲田大学
1881
M14
4y 『国体新論』絶版事件
1882
M15
1y 不敬罪施行 大逆罪施行
1889
M22
7y 大日本帝国憲法発布
1892
M25
3y 久米邦武事件 国家が学問を支配することが始まり、日本の歴史学がねじ曲げられ、神話が歴史をおさえこみ、国民は子どもの時から神話的国家観を頭にたたき込まれるようになる
1894
M27
2y ~1895まで日清戦争
1904
M37
10y ~1905まで日露戦争
共産党宣言の翻訳
1910
M43
6y 幸徳事件
1911
M44
1y 政府決定で、南朝が正統と決定する←歴史上の問題を政府が政治的に決定してしまった
1914
T3
3y 第一次世界大戦
1920
T9
6y 森戸事件
1925
T14
5y 普通選挙法成立(25歳以上の男性が選挙権を得た。これにより財産による制限はなくなった)
1931
S6
6y 満州事変
1932
S7
1933
S8
2y 滝川事件(京都帝国大学で発生した思想弾圧事件)←弾圧するほどの思想はその本には書いてなかった、なので他の理由があるのではと、いろいろ書いた立花氏
1934
S9
2y 天皇機関説が国会で批判される(これをきっかけに、ほぼ法学者しか知らなかった「天皇機関説」が一般化しはじめる)

軍部が国民向けパンフレットを配る(「国防中心の国家作りをすることが急務である」云々)
1935
S10
1y 国体明徴声明
1936
S11
1y 二・二六事件
1937
S12
1y 日中戦争
1938
S13
1y マルクスやエンゲルスの本が事実上の発禁
1939
S14
1y ~1945まで第二次世界大戦
1943
S18
4y 国定教科書「初等科國史」になると、歴史の神話化ますます
1945
S21
2y 普通選挙制度成立(男女20歳以上の者に選挙権を与える規定に基づき婦人参政権が成立した。翌1946年の第22回総選挙で女性議員39名が当選)