「明治は遠くなりにけり」という言葉が昭和40年代に流行ったらしいのだが、さすがにわたしは小学生だったため覚えていない。それから50年。今年2018年は明治元年からちょうど150年が経過した。そのせいなのだろうか? NHKの大河ドラマは「西郷どん」だし、明治時代の偉人を取り上げたバラエティもNHKで最近見た。

そのバラエティでは、明治時代の傑物たちが、日本国建設の理想と希望に燃え未来志向であった旨を伝え、ゲストの皆様も顔を輝かせていたのであるが、その理想が、のちのちに悲惨な敗戦になっていく事をお忘れじゃありませんかっ!? と思うしかなかった。

まずもって一番の疑問は、どっからどう見ても人間である天皇のことを「現人神(あらひとがみ)」と皆で信じ切ってしまったのはどうしてなのか? 明治の偉人達もそう思っていたのか? そうなのかそうでないのか、まったくNHKは教えてくれない。肝心要なことがさっぱりわからない。

話しはややそれるが、今年の6月、RADWIMPSの「HINOMARU」の歌詞が軍歌を彷彿とさせると批判され、作者がすぐさま謝罪する事件が起きた。これは何重もの意味で事件だ。歌詞をいちいちと監視している人間がいるということ。それが一定以上の圧力と支配力を持つということ、一表現であるにも関わらず謝罪しなくてはおさまらない社会状況。

なにこれ、戦前? 治安維持法?

「HINOMARU」を作詞した野田氏は謝罪の時、自分は右でも左でもないと説明していた。右翼的な歌詞と解釈されたことへの否定の形であり、右(左でも)の人間とは思われたくないためだろう。そこを引っ張って今の時代を鑑みるに、日本の有権者のほとんどは無党派層なわけだが、支持政党を持てない理由のひとつが、支持政党を持つと自動的に「右派」「左派」にふるい分けられてしまうことへの嫌悪感と警戒感があるのではないか。景気が良くなる、子供を保育園に入れられる、などの明確なご利益がある場合以外、投票に行こうとしないのも、そこらへんかと。右と左とは、何なのか?

今まで、あまり深く考えたこともなかったし、右か左かと言われたら、自分は左の方であろうと、漠然と思っていた。左は、別名「リベラル」ともいい(?)、リベラルとは自由を意味するのであるが、それなら「自由民主党に付いてる自由ってなんなんだ?」という素朴な疑問もわく。わきすぎて、自民党のサイトで説明を読んでしまった。それによると「最後まで問題になったのは、新党の名称でしたが、広く党内外に公募した結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」に決定しました。」とのことで、結局よく分からなかったのだった。

そんなこんなでモヤモヤモヤモヤした矢先に、ひょんな事から『天皇と東大<1>大日本帝国の誕生』立花隆著を知ったので読んでみた。

というか、上のリンクは<1>の感想を集めた「読書メーター」なんだが、実は<2>もあり、完読するのはほぼ不可能に近いくらい長大な本だ。どうしてこんなに詳しいのか分からない。おそらく著者は相当にのめりこんで筆がのりにのってしまったらしい。詳しすぎてだんだん天皇とも東大とも関係ない方向へ向かっていった。特に、明治時代と違って昭和の戦前戦中の歴史はつまらない(断定)。あまり魅力的な人間もいない。いたとしても、この本には出てこない。道理でNHKが明治時代ばかり取り上げて、その後をぼかしているわけだ。

 

そんななので、<2>は途中で放り投げた。

その欠点をのぞけばこの本は、日本の右と左の歴史を知るための素晴らしい本だと思う。ただ、どうしてもこの本だけだと昭和20年代までになってしまうので(この本自体は平成17年が初版)、それ以降の「右」「左」について知るために『右翼と左翼はどうちがう?』雨宮処凛著も参考にした。

せっかくなので、この後、夏休みの自由研究のつもりで、見知ったことをレポートしつつ研究発表していこうと、思っているところだ。

 

 

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