『プレイヤー』の見取り図のつもりの自作イラスト

『プレイヤー』の見取り図のつもり。

劇団四季以外の演劇を見るの初めてなんで、最初、舞台に立つ人たちを見たとき、「この関係、何? 変」と思った。普段自分を取り囲む人間関係には、家族やご近所さんや同僚、あるいはすれ違っただけの、電車で居合わせただけのと色々ある。が、「人が舞台に立っていて、こちらはその姿を見ていて、相手はこちらを見ない」という関係ははじめてで、とても奇妙に感じた。これは特に、『プレイヤー』の役者さんたちが、どこにでもいる身近な人に見えたから、特別に感じたんだと思う。

舞台は、ラジオ番組の収録スタジオから始まる。奥まったところに小さなセットがあり、役者二名が向き合って会話をしている。役者のうち一人は有名人の「仲村トオル」さんなのはすぐに分かった。「仲村トオルさんて意外と普通の人なんだなあ」と感心して見た。のだけど、セリフが妙にギクシャクしている。自分が演劇を見たことないから下手に見えるのか、もともと演劇の演技とはこういう感じなのか分からないまま見ていた。そうしたらなんと、そのスタジオはこの演劇中でもセットであり、ふたりはラジオのパーソナリティとゲストの演技をしている市民劇団員1だったのである。

つまり、わざとギクシャクさせていた、のだろう。舞台全体が明るくなると、劇団員や市長などの人々が総勢10人くらいあらわれた。特徴的なのはたくさんパイプ椅子が並んでいることだ。リハーサルを見守る演出家やプロデューサーや、出待ちの役者が座るためだろう。椅子は人の尻(肉体)をのせる。椅子は人が居る/来ることが想定されない場所には不要だ。劇中の椅子の数は、登場人物の数に比べて多すぎるため、どうしてこんなに並んでいるんだろうとずっと考えて、途中で思いついたのが、<今、この場に居合わせている観客も含めた、居合わせたすべての人間>という意味ではないだろうか? と。(ややもっともらしすぎて恥ずかしいが)

舞台上にいるのは、どこか地方の市民会館の劇団員だ。ある者は東京での活動歴があるし、地元を出たことのない人もいて、背景はさまざまだ。これには「いいところをついてくれたな」と思った。と、いうのも「なぜ地域地域に劇団がないのか?」と常々疑問に思っていたからだ。むかし筒井康隆の本で読んだが、演劇は人間の表現活動の中でもっとも古いものだという。小説なんかはせいぜい19世紀あたりからなのに比べ、もう圧倒的に古い。たぶん紀元前。

演じることは人間の原初の本能、とまで言っていた。それならば、もっと日常的に演劇に接していいのではないだろうか? ところが現実は、わざわざ都市部に出向かないと演劇なるものは見れないし、そのチケットを取るのさえ容易ではない。クオリティのうんと高い演劇はプロフェッショナルな人々が行うとしても、単に舞台に立って何かを演じ、表現するのは、あるいはそれを見るのは、もっと身近でもいいのではないだろうか? そのための空間が地域ごとにあるならば、その地域の特色や問題を盛り込んだ内容になれるのだ。

地域といえば当方、先日「地域包括ケアシステム」についてPOSTした。本来は地域住民が自発的に、身の回りの介護やケアの必要な人を気にかけるようなコミュニティになれば、「無縁死」「孤独死」も防げる。だが実際は、なかなかそうはいかない。町内会班長の下の組長になるのすら擦った揉んだが起きているくらい、地域住民と関わろうとしない。面倒な(しかも無償)役割を義務感で引き受けるのなど、誰もが嫌がるってことだ(少なくとも現在のところ)。ここらへん、厚労省も「どうせやらないね」と思ったのか、「保険外サービス」を紹介したりと、無難な方へ流れている。

そう考えると、義務ばかりを押しつけられるよりも、楽しい演劇空間を共有することで地域コミュニティが育つのではないかと夢想するのだがどうだろうか? しかし経済活動にならないため、やる人も少ないと、思われる。何でもかんでも金である。作中、「人類のバージョンアップ」という流れで「資本主義の行き詰まり」や「環境問題」という概念が出てくるのであるが、芝居的に言えば「資本主義」の行き詰まりはスターシステムにのっからないと客が集まらないとか、そういうことじゃないだろうか。

そんなで劇中劇であるため、意識が外へ向かったり内に入ったりと往来する。しかも「プレイヤー」を具現化するために瞑想したり座禅したりする課程で無意識を意識することになる。当初、市民劇団が次回上演予定の芝居のリハーサルをしている、という形で「プレイヤー」は演じられていた。その時は「プレイヤー」の演出家やプロデューサーが側にいて、演技を褒めたりアドバイスしていた。そのたび観客は「ああ、これは『プレイヤー』を演じている最中だ」と、思い出す、という案配であるし、あるいは「今は『プレイヤー』を演じているとこなんだよね」と、ワケが分からなくなった頭で隅っこの演出家やプロデューサーの姿を確認することになる。

劇中の「プレイヤー」に引き込まれては「現実(劇)」に戻され、「現実(劇)」に引き込まれてはまた「プレイヤー」に押し戻されと、行ったり来たりでだんだんこっちは気持ちの悪い意識状態になっていく。これ、下手にやると、というか上手にやり過ぎると本気で怖い。教祖による「集団催眠」や「集団自殺」って、難しくないのかもしれない。ことに終盤にさしかかると、頼みの綱の演出家とプロデューサーさえもが、「プレイヤー」の登場人物のようになっていくため、尚更だ。

宣伝文句に「サイコホラー」という言葉があったが、映画やドラマで見るホラーとは違って、空間を共有しているがゆえの怖さがある。お目当ての「藤原竜也」さんも、10年着古したユニクロみたいな服を着ているせいか、いたって普通の人に見えた。しかも出番は後半はほとんどない。というか、いることはいるんだが、すっかり「プレイヤー」であることを受け入れてしまったので、融け込んでいる。なので、教祖と戦ったりとかはしない。コレといった主役は特にいない。有名俳優が出てなくても成り立つ内容なのだ。けど、やっぱり居ることでの効果はあるのはある。

「ネットに上げる」というセリフで舞台は終わるのだが、それ、どういうこと? と風変わりな余韻になった。「プレイヤー」の原作は、もともとは地元出身の作家**が書いた。**は東京で孤独死したのであるが、同じく地元出身の女性プロデューサー☆☆(舞台上でずっと劇を見守り続けていた。ときどきセリフあり)がホンをみつけたのだ。小さく報道された**の死の中で、**は「無職」となっていた。それが☆☆は悔しくて「プレイヤー」を地元の市民会館で上演することに決意した。

とはいえ、「プレイヤー」は未完だったがため、☆☆は、役者達の生きる=演じる行為から発生するものに賭けた。その結果としての「プレイヤー」をネットにあげ拡散しプレイヤーを増殖させる。という意味にも取れるし、結果としての「プレイヤー」を、たとえば何らかの賞への応募なり、ハリウッドの何かなりに「上げる」のではなくネットが意味するのは、通常なら「無職」と切り捨てられる側からの資本主義への反撃とも取れるし……

シアターコクーン(という劇場)に入るとき、ドサッと、ものすごい束を渡された。その時は分からなかったが、今さっき確認したら、チラシの束なのである。さまざまな演劇の。その数49演劇だ。一人の役者は同一時間に他の場所に居られないことを考えると、こんなに沢山あること自体が驚きだ。この社会に生きる形について、考えたチラシ郡だ。

チラシを散らかしたところ

チラシを散らかしたところ。自分が流山に住んでいたことがあるため、流山ブルーバードというのが一番気になった。ローカル嗜好。


  1. 市民劇団とも違うかもしれません。

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