2017年8月21日記

作:前川知大 / 演出:長塚圭史
出演:藤原竜也 / 仲村トオル / 成海璃子

2017年、思い立って舞台というものを観ることにした。
職場の組合で劇団四季の『ライオンキング』や帝国劇場『レミゼラブル』は観たのだけど、それ以外で行くのは、初めてだ。
さて、どうなるのか。

舞台は、ラジオ番組の収録スタジオから始まる。
奥まったところに小さなセットがあり、役者二名が向き合って会話をしている。
一人は「仲村トオル」さんなのはすぐに分かった。「仲村トオルさんて意外と普通の人なんだなあ」と感心して見た。
のだけど、セリフが妙にギクシャクしている。自分が演劇を見たことないから下手に見えるのか、もともと演劇の演技とはこういう感じなのか分からないまま見ていた。
そうしたらなんと、ふたりは「ラジオのパーソナリティとゲスト」の演技をしている市民劇団員だったのである。

つまり、わざとギクシャクさせていた、のだろう。
舞台全体が明るくなると、劇団員や市長などの人々が総勢10人くらいあらわれた。
劇団員のある者は東京での活動歴があったり、ある者は地元から出たことのないなど、背景はさまざまだ。

ちなみに「プレイヤー」とは死者の言葉を再生(プレイ)する人。

劇中劇であるため、観ていると、意識が外へ向かったり内に入ったりと往来する。
当初、市民劇団が次回上演予定の芝居のリハーサルをしている、という形で「プレイヤー」は演じられていた。
その時は「プレイヤー」の演出家やプロデューサーが側にいて、演技を褒めたりアドバイスしていた。そのたび観客は「ああ、これは『プレイヤー』を演じている最中だ」と、思い出す、という案配。
あるいは「今は『プレイヤー』を演じているとこなんだよね」と、ワケが分からなくなった頭で隅っこの演出家やプロデューサーの姿を確認することになる。

劇中の「プレイヤー」に引き込まれては「現実(劇)」に戻され、「現実(劇)」に引き込まれてはまた「プレイヤー」に押し戻されと、行ったり来たりでだんだんこっちは気持ちの悪い酩酊状態になっていく。これ、下手にやると、というか上手にやり過ぎると、集団洗脳ができあがりそう。
終盤にさしかかると、頼みの綱の演出家とプロデューサーさえもが、「プレイヤー」の登場人物のようになっていくため、尚更だ。

このお芝居の宣伝文句に「サイコホラー」という言葉があったが、映画やドラマで見るホラーとは違って、空間を共有しているがゆえの怖さがあるのだ。

「ネットに上げる」というセリフで舞台は終わる。
「プレイヤー」(劇内での)の原作は、もともとは地元出身の作家○○が書いた。
○○は東京で孤独死した。
○○と同じ地方出身の女性プロデューサー▲▲(舞台上でずっと劇を見守り続けていた)が○○のノートをみつけた。

小さく報道された○○の死。新聞では「無職」となっていた。それが▲▲は悔しくて「プレイヤー」を地元の市民会館で上演することを決意した。

しかし○○の書いた「プレイヤー」は未完だった。そのため▲▲は役者達の生きる(=演じる)行為から発生するものに賭けた。

その賭けに勝ったのか負けたのか? 

それは分からないが、未完の何かの続きをえんえんと演じ続けているのは、ワレワレみながそうだ、と思い至った。