ユーロスペース、この映画に関して「女性二人でご来場なら一人1300円」という企画をしていた。
それおトクじゃん!! とばかり、さっそく映画友達のWさんを誘って行った。
2人だと呑んだり食ったりして結局高くつくと、あとで思い知る事になるのだけど、「女性二人」で優待した理由は見終わってすぐに分かった。
それでお互い「そういうことかあ(^O^)」と顔を見合わせ、ついでに「どう? わたしと?」と言ってみたところ、鈍器のような鈍い反応が返ってきた。
わたしとて冗談でもWさんはちょっと・・・。(Wさん、ごめんごめん)

そんなイミフな前振りはここまでにして。
ゆえあって地方に左遷させられたエリート女性警官ヨンナム(ぺ・ドゥナ)と、土地の唯一の若者であるため、いくら暴力をふるっても住民ぐるみで容認されてしまい、誰も助けようとせず犠牲になっている少女ドヒ(キム・セロン)。
両者の交流を軸に、若者不足の地方の窮状、不法労働者の問題、暴力、性的マイノリティー
と、社会問題と私的な事柄を双方織り込んでいく。

もともと見ようと思った動機の大きい部分は、宣伝スチールにある田園風景(上の写真)だ。以前も『殺人の追憶』の死体遺棄現場の田園に懐かしさを覚えたものだけど、この明るい黄緑色の光景もキレイだ。
ちなみに、『私の少女』ロケ地は仁川、江華島etc…とのことだったので、地図で調べた。
中国方向へ面した海で、ソウルにもほど近いということが分かる。
冒頭部分の雨の中車を走らすシーン、ソウルからここへ向かっていたのだなと、あらためて分かった。

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思うのは、ヨンナムがドヒに「私と行こう」と決断してくれた時、いったいどこへ行こうと言ったのか?
単にソウル(都会)ならばまた困難が待ち受けている。けれど、この地方にもいられない。ある意味、どこにも希望がないのだ。
あるとしたら、それはダンスであり、お互いが一緒に居る、ということだけ。
なにせ、そこへ至るまでに存分に、映画は、そしてキム・セロンは少女の重さを描いていた。
見てて、鬱陶しいなあと思った。ここまで頼りにされ、すがられてしまうと、いくら暴力の被害者の少女といっても苦しい。
そんな重さと肌触りを感じさせていた、キム・セロンの表情と一挙手一投足。
自分がもし、ヨンナムの立場なら、ドヒに一緒に行こうと言えるか? 一緒に行こうとはいかないまでも見捨てずにいられるか?

断じて見捨てる人間になっちゃダメだろう。
そんな、生きる覚悟を再認識させる面がある映画。
が、この映画の場合は、映画らしいヒネリが加わっていて、観る者の負担感(覚悟)を最小限に抑えてくれている。

映画とは、サービス業であり都市の産物なんだなと期せずして思ったり。
そう思う他の理由は、ぺ・ドゥナの見事な美しい鍛えられた贅肉のないかっこよすぎる肢体にある。足が長く、細く、ヒップが上に上がっていて。
本編中ださい髪型なのは、村の美容院で切ったから。ドヒもまったく同じ髪型なのがミソ。

にしても、韓国も日本も、出生率の低さで並んでいる。
どうしてそうなったのかというと、結局どっちも巨大な田舎だからじゃないかとか、あれこれ考えてしまった。
あと、終始イイ男の出てこないコクな映画ではあるけど、後で考えると、あの暴力男をやってた役者さんの演技はスゴい。
酔っぱらって子供を殴る、蹴る、髪の毛ひっつかむ時の、ヨタヨタユラユラしながらのゾウリが脱げそうな、日常と化した暴力風景。観てるときは演技ってまったく思えず、ほんとにそういう人を連れてきたのかと思ったくらい、真に迫っていて。

この人たちの出る映画、これからも観ようと思った映画だった。