
線香の 煙たなびく 冥土道
よく見ると、鉄塔がお線香のようでした。
七月、義妹の三回忌に、埼玉から茨城へ行きました。その帰り道の写真です。写真だけだと意味不明なので、季語のない俳句と、その説明を付けました。
よく見ると、鉄塔がお線香のようでした。
幾度も訪れる後悔。もっと、もっと話をしていれば。もっと会っていれば。
三回忌に来ていた高校生が、「またね」「お疲れ様」「バイバイ」は使うけど、「さようなら」は使わないと言っていました。まるで永遠の別れみたいだから、と。
亡くなってしまったのだから「さようなら」がふさわしいでしょうか? さようならには、もう会わない、そしてもう思い出さないというニュアンスを感じて、違うように思いました。
義父が亡くなった秋、義母が亡くなった冬、義妹が亡くなった夏。人はいなくなり、山はいなくならない。
自分のことよりも人への気配りがいっぱいだった君。帰り道の美しい夕陽も、まるで君が用意してくれた土産のよう。
利根川。この特別な川。千葉と東京を別ける川。わたしにとって多分に、束縛と自由を別ける川。
何気ない世辞を、真剣に受け止めていたかもしれない、かの人。何気ないはやめよう。もうやめよう。
荼毘に付されて煙になっても、原子になって大気中に残ると、聞いたことがある。人の命はそういう意味でも永遠だと聞いたことがある。
科学はともかく、もしもカーテンのように空を開けられたら…
三回忌の間に思ったこと。お坊さんの念仏と木魚を叩く音で塀を立てるんだなと。あの世とこの世の間に塀を。本当は、あの世はこの世に、重なるように近いのかもしれない。
今日が去って行く。そして、次から次へと、去っても去っても、悩みや苦悶が訪れる。それで死ぬわけじゃないけど。その間がこの世。その間が夏。その間だけが、命なんだ。