世界は一人

世界は一人 公式サイトより

2019年3月6日記

公演:2019年2月24日〜2019年3月17日
会場:東京芸術劇場 プレイハウス
作・演出:岩井秀人
音楽:前野健太
出演:松尾スズキ 松たか子 瑛太 平田敦子 菅原永二 平原テツ 古川琴音
演奏:前野健太と世界は一人
(Vo,Gt.前野健太、B.種石幸也、Pf.佐山こうた、Drs.小宮山純平)

 

今まで何本か舞台劇の感想を書いたけど、この舞台はかなり違う感触をもった。たとえば流山ブルーバードでは、舞台と客との呼吸がピタリと合う感じがあった。世界は一人はそうではない。「どうしてここで左隣の人、笑うんだろう?」とか「え、すごい可笑しいのに何でピクリともしない?右隣の人」と、感じる瞬間がたびたびあった。ぜんぜん他の客と息が合わない。

他にも変な特徴がたくさんある。一人の役者が担う役が一つじゃない(いや、明瞭にはわからなかったけど、そうだった)。二つとか、三つの、他の人物に変移する。場合によってはいきなりナレーションぽいことまでする。年齢にも縛りがない。なんせ、松尾スズキと瑛太と松たか子が同級生だ。さらには、生まれてきた子がいきなし小太りのおばちゃんだ。

もしわたしが劇を作れたとしても、ぜったいにわたしの頭の中から出てきそうもない要素が続く。言ってみれば、「他者感覚」が半端ない。これは、むしろ珍しいことだと途中から気づいた。同じ日本に暮らして同じ空気を吸っていたら、どうしても常識的に共有するものが出来てしまうからだ。

といっても、全然共通点がないわけでもない。田辺(という名前だと思った。松たか子)とゴロウ(松尾スズキ)が夫婦喧嘩をする。松たか子の声はとても美しい。この劇、そうとは知らなかったのだけど実はミュージカル要素がふんだんに盛り込まれている。なので役者が歌を歌う。松たか子の歌声はすごく良い。

その美しい声で夫相手に憎悪の声を上げるのだ。「そう、みんなあたしのせいだって言うのね! みんなあたしが悪いのね!」等々。

一体、世の中の夫婦のどれくらいの割合が夫婦喧嘩をするのか不明だけれど、ひとたび始まれば、お互いが子ども時代へと逆行するんだと思う。子ども時代はまだ夫婦でも何でもないし、子ども時代に起きたことにお互い責任があるわけでもないのに、子どもへと変移する。松たか子の罵り声は、大人の女の声であり、子どもの声だ。

自死や洗脳やせいしんの病や産業廃棄物の汚泥など、つらくてどす黒い波が 寄せては返す。そうそう、パイプカットって、いつやったんだ? いやもうそれ確認しないと、と思ったけど、そんなこと、息子が父に聞けるはずもなくて。悲しくて可笑しくて。

毒性の高い汚泥がどこに廃棄されたのか? という疑問がリフレインされる。こっちはすっかり忘れているのだけど、繰り返し出てくる。結論としては、砂浜に捨てられていたらしい。砂浜って、みんなが遊ぶ場所じゃない。ひどい。不安が全身に広がる。

「誰もあたしを求めてない」と最後の方で田辺が言っていて胸にささった。その言葉はどこで言うべきだったのか、その場所でもあるし、子どもの頃でもあるし、客の胸の中かもしれない。言うべき言葉とか人物の要素が分解されて、あちこちに偏在している。少女(例の小太りのおばちゃんと同一人物)が何か言うと、それが救いなのかなと思った(依童や座敷童の原理)。けれど、少女の言ったことは、あー…… と思うことだった。嘘くさい救いではなかった。それに、子どもは依童ではない。あくまでも大人が考えないといけないことだから。

わたしが考えるとすぐに教訓引き出し型になってしまう。そうすると、考えがまとまるような気がするのだ。実際は教訓などはない。ただかみしめよう、絶望と不安とさみしさと、どこからか不思議と湧き上がってくる楽しさを。