『アウトレイジ最終章』以来6年ぶりの北野映画!
ということで勇み足で公開日に観に行った。
行ったはいいが首ばっかり飛んでいた。
映画というより処刑場の見物に来たみたいだった。
実際、そういうシーンもあった。
しかも出てくる奴ら全員イヤだ。
『アウトレイジ』の場合「全員悪人」というキャッチフレーズだったけれど今回は「全員ズル。変態。バカみたい。くだらない。ゲス」
と言っても過言ではなかった。
信長を筆頭に秀吉から家康から光秀からもう全員そう。
特に信長。
演じるのは加瀬亮。
息をしているだけでかっこいい好男子。
『アウトレイジ』で金融に強い頭の切れるワルだった人。
ところが今度という今度の信長はどこのどのシーンを切り取ってもクレージーで変態でムカつく暴力男。
図式的に言うと「アウトレイジー(引く)かっこよさ」が本編。
あのエッジの効いた無慈悲な悪に魅了されたこっちの立場はどうなる? こうなると『首』って観なくて良かった? って自問したくなったくらい。
のだけど、
なぜかまた観たくなってる。
不思議でたまらない。
理由は何なんだろ? 北野武への情愛だろうか? まあ一種の情はありますわな。ファンだし。
いや、でもそれだけじゃない。
あ、そうだ。
ひょっとして、
あの映画の中に「仏教的救済」があるからじゃないか。
なんて閃いてしまった。
生きるのが無駄で無意味で苦しくて悲しくて…と思った時に(そういう弱った時もありますわな)ピタっと心の襞にくっついてモミモミモミモミされる。納得させられる。合点がいく。いっそ首よ飛べ。
百姓の一人(中村獅童)が成り上がって武士の仲間になれた。
その時の笑顔ときたら。
今どき子どもでもあんな嬉しそうな顔しない。
よほど百姓がイヤだったんだろうなあ。
途中で「早く死にたやこの世は地獄」みたいな踊りが出てくる。
戦国時代はああいう死生観だったのかもしれない。
本編のメインは日本史最大のハイライトとされる「本能寺の変」。
この映画では男達の愛と欲と嫉妬の絡み合いが裏にあった、としている。
特に信長は光秀が欲しくて欲しくてたまらなかった。
光秀が嘘も方便で言った「お慕いもうしております」に感激しすぎの信長。
これ、まったく無理な解釈ではない。
さっきwikipediaで光秀の肖像画を調べたらびっくりするくらいの美形だった。
特に、憂いを帯びた顔に薄く睫毛が描かれている。
典型的な女性表現である。
現代の女性も女性性を嵩増しするために真っ黒く長い付けまつげを付ける。
ちなみに鉄腕アトムに睫毛が描かれていることをもって「実はアトムは少女」と主張している人をテレビで見たことがある。
なるほどそうかもと思ったものだ。
光秀もその伝だ。
さらに鬢(びん=もみあげ部分)の後れ毛を見よ。男なら油でべたっとなでつけるはずだ。信長はそうしている。
自分の描いた光秀のイラスト
肖像画じゃ分かりにくいので、ちょっと誇張してみました。唇も色っぽいし、二重で切れ長の瞳なのが、よく分かりますね!
これは藤田ニコル氏のそのものズバリ「後れ毛って大事」から拝借した後れ毛だ。
これによって女性らしさが演出されているのである。
光秀もそれである。
誘惑的に鬢(びん)を乱す。
テクニックである。
そんなこんなで光秀。
演じるのは西島秀俊。
『ドライブ・マイ・カー』を思い出した。
あと『きのう何食べた?』。
ほぼほぼ同じような印象である。それでいて光秀が成り立っているのである。
男色相手の遠憲とハダカの絡みもあるのであるが耽美でもなけりゃ色っぽいってわけでもなく。
もう淡々とすすむ。
淡々と「おれはお前一筋だ」ってスゴイせりふ言っちゃう。
今思い出して「あ、やっぱまた観たいヮ」。