FOLLOWING(フォロウイング)の感想
クリストファー・ノーラン映画監督のデビュー作を上映している、と聞いたので鑑賞に行った。
(19、21、23日にも上映するので見る予定の人は開かないでください!!)
その作品『フォロウィング』のイントロダクションはこういうものだ。
こんな蠱惑的な紹介文を読んだら、監督がノーランでなくても観たくなるってものだ。
ところが上映1分以内に判明するのだが、この紹介文が醸し出すような展開を映画は見せたわけではなかった。
まず、この話しには、聴き手がいる。
上記紹介文とだいたい同じことを、男(ビル)は話す、それを聞く相手がいるのだ。
年配の男だ。顔は映し出されなくても声でわかる。
ビルのやっている事はきわめて個人的で内密な事柄。
それを打ち明けるのだから、ただの年配の男ではないと感じる。
何らかの権威を持つ人物。
精神科医、カウンセラー、刑事、保護官、弁護士、看守、教師、雇い主…
どれであるにしろ、もたらした効果は多大だった。
一言で言えば「安心感」を感じさせた。
なぜなら、人の後を刑事でもないのに好き好んで付け回す貧乏でみすぼらしく孤独な男が、この聴き手のおかげで変容した。話しの聴き手がいるのなら、ある程度の解決は着いた、ということだ。
よかったじゃないか。
社会の中に場所を得た、ということだ。
ビルは尾行に取り憑かれた。これ自体は犯罪じゃないだろうし、ある程度気持もわかる。「あの人はどんな家に帰るのだろう」と好奇心にかられ途中までついて行ったことくらいは、わたしにもある。
ただ、よりによって、コッブというモノホンの泥棒の尾行を始めてしまったのは、どういう偶然なのか。
コッブはビルの尾行に気づき(自分に対する、ではなく他人への)、次は自分を尾行したくなるよう仕向けたのだろうか。何かそういう伏線があったとしたら、わたしはそれに気づいてない。
泥棒が主人公の物語は多い。前々から思っているが、泥棒は「資本主義」もしくは「資本家」のアナグラム。
dorobou ←→ shihonka
うまく入れ替えたらピタッと重なるはず。
コッブが自分を崇拝させる手口は、なかなか面白い。
「人は皆箱を持っている」とか。
他、失念したけど、洋の東西を問わない普遍性のあることを言う。
(もちろん、わたしも箱を持っている)
それに、ビルの職業を聞くときに
「画家? 作家? ○×? ××?」とたたみかけ、どれでもないと知ると、何になろうとしているのか聞く。
「夢ぐらいあるだろう」
dorobouは口もうまい。
賃労働をしたくなければ、夢をもつしかないのだから。
dorobouは賃労働なんか、やりたくない。
dorobouは、盗んだ金品で優雅に暮らす。
対するビルは、本物のdorobouではないから、札束を盗んだはいいけどバッグがなくてガムテープでヨレヨレの札束を身体に貼って運ぼうとする。
この時の描写の、カメラに映り込んだ濃い陰影。
生々しい札の束。いかにも汚い。
自分の身体に貼る、なんて。
いやもう、足と腕の分はもう捨ててくれ、胴体だけでいいだろうって思った。
鬼気迫っていた。
重要なのは、観客にもたらす感情や気持ちではなく。
登場人物たちが持った感情や欲望。
それが絵を動かしていく。
たとえば、エロ写真が入っていると思わせて盗みに行かせる、という罠にひっかかるビル。
封筒の中にただのポートレート?が入っていて激しく投げ捨てる。
まってまって、その写真をちゃんと見せてくれ。なんか、モンローじゃなかった?
まあ確認のしようもない。
作品の全容がよくわかったわけじゃないけど、最後、聴き手の正体が判明する。
刑事だ。
最初に「安心感」をもたらした、と書いたけど、そんなものを持たされたことも罠だったのかもしれない、と思いしる最後だった。
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上映館=下高井戸シネマ
http://shimotakaidocinema.com/schedule/schedule.html#following
情報
1998年、ノーラン28歳の時の映画なり。
パンフレットによると、カメラは自分で肩にかつぐ。
ワンカメラで撮る。
光線条件が変わるので手早く撮る。
役者は窓際に。
低予算映画で難しいのは音楽。
など、濃い内容のことが書いてありました。