映画館と配信でみるの、同じ『首』でも違いはあるか

NetFlixで『首』を観た。
映画館でも観ているので二度目だ。
映画館で見た時と、家でゴロゴロしながら観るのでは、印象が違うものだろうか?

かなり違った。
以下に違いとして気づいたことを列挙する。

違い1

映画館の大きな画面で観ると、たとえば信長の場合、スクリーンにいるのは信長であり、それを演じる加瀬亮という役者。

加瀬亮の演じる信長はキャハハと笑いながら人前で小姓と性交したり、家臣の口に刀をつっこんでグリグリしたりと、メチャクチャに狂ったやつ。

スクリーンの場合、「こんな役を演じるの大変だろうなあ」と思ったし、信長を観ているというより加瀬サンを観ている案配になった。
これ、いっしょにいった妹も「加瀬サン、相当無理してたね」と言っていたので、大方の人がそう感じるところかと。

ところが、家でテレビ画面で観ると、加瀬亮は信長というキャラクターとして動いていた。
南蛮エッセンスの和装がとてもステキだし、狂いつつも色気があった。

つまり、スクリーン上では、役者と役者が演じる対象がズレたりダブったり分離したりしながら目の前に現れる。ふいに、どちらかが前面に出てきたり。

しかし、家でテレビ画面で観る場合は、各人がキャラとして立っている。

違い2

清水宗治(荒川良々)という武士が小舟の上で切腹をする場面。
調べると、清水宗治は武士の鑑と賞賛される素晴らしい人物だったようだ。
(やはり、戦国時代の武士達について、事前知識を持っていた方が面白い映画なのだ。)

この清水宗治が、秀吉サイドの策略で?切腹するわけだが、この時の映像がスクリーンでは荘厳だった。
が、テレビ画面だと、妙に軽い印象になっていた。
ちなみに清水宗治、にわか知識だけど、武士の誇りに満ち満ちていたので、辞世の句もすごいの詠むし、身だしなみも整えての切腹だったのだ。

違い3

光秀、自分の首が大好きだった?

今回気づいたのが、明智光秀が殺される直前の表情。
向かってきた中村獅童に向かって
「俺の首がほしいかー」
と言ったときの顔が、酔ってるみたいな、ナルシスティックな表情だった。

あたかも自分の首が10000カラッとのダイヤモンドでもあるかのような…

この時代の感性が、垣間見れるようでもあった。

違い4

弥助という存在が、この映画のおかげなのか知らんけど、最近話題になっている。

アサシン クリード シャドウズ なるゲームになっていて、
ここでの弥助の描かれ方が「日本史の書き換え」という陰謀論に発展している。

アサシン クリード シャドウズはともかく、『首』で信長の首をはねたのが弥助なのに改めて気づき、いやあ、これはひどいね。と思った。

光秀にはねられたのならともかく、黒人。

アメリカ人が日本文化を根本的に破壊していったことの、メタファー?

違い5

最後に「こっちは死んだのが分かれば首なんかどうだっていいんだー」と言って蹴飛ばす行為。
これにビックリしたのは、今回も同じだった。

そら、驚く。唐突に首を蹴ってたら。

とはいえ、蹴った首の隣にあったの、明智光秀じゃなかった?
光秀を蹴らないで、隣の蹴った?

これに何か意味あるんだろうか。