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2023年4月30日記

作/演出:平田オリザ

出演:永井秀樹 天明留理子 木崎友紀子 太田 宏 田原礼子 立蔵葉子 森内美由紀
木引優子 石松太一 森岡 望 尾﨑宇内 新田佑梨 中藤 奨 藤瀬のりこ 吉田 庸
名古屋 愛 南風盛もえ 伊藤 拓

観た場所:こまばアゴラ劇場
観た日:2023年4月27日(木)

しばらく休んでいたがまた演劇を見はじめることにした。(⇒今までの鑑賞歴
何を見るか? そしてその感想をどう書くか? あらためて悩み、とある演劇評サイトをみつけた。その人はとても詳細に劇のデータと感想を書いていた。「うん、信頼できる、この人は。」 直感的にそう思った。で、その女性が〝次に観たい舞台〟として挙げていたのが、本作『ソウル市民』だった。

わたしはその場ですぐさま検索し、『ソウル市民』のチケットを購入していた。

『ソウル市民』、どんな話しなんだろう。いちおう事前に情報も見ておこう。というのも先日、東京芸術劇場で観た演劇があまりに芸術度が高く、わたしは不覚にも寝てしまった。チケット代9500円もしたのに。後で調べると、登場していた役者さんたち、かなり著名だったようだ。それに、海外作家が書いた有名なシナリオだった模様。

それ以来、舞台演劇はドラマや映画よりも芸術性が高い(場合がある)ことを思い知った。なので、事前に情報収集をすることと、自分に向かないと判断したらば、あえて観ない、と決めたのだった。

ということで情報収集

『ソウル市民』|公演案内|青年団公式ホームページ

人が人を支配するとは、どういうことなのか。
日本の植民地支配下に生きるソウルの日本人一家を通して、植民地支配者の本質を明晰確固と描き、現代口語演劇の出発点となった、1989年初演の平田オリザ代表作。青年団ホームページ

……聞いたことある。平田オリザって。(文中敬称略) ⇒wikipediaで調べる。ふむふむ。なるほど。

1909年、夏。
日本による韓国の植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる。青年団ホームページ

「日韓併合」って何だっけ。韓国を統治下に置いたやつだよね。⇒wikipediaで調べる。ふむ‥‥

なんか、全体にガチなチケットを買ってしまったようだった。内心ビビり始める。

当日の当方の挙動

「こまばアゴラ劇場」というのは、「駒場東大前」という駅で降りる。降りると、とても都心とは思えない、落ち着いて味のある町並みが続く。町自体があたかも劇場のように見える。
じっさい、早めに着いたので町を散策したら、線路わきで女性が倒れていてビックリした。どうやらアマチュアが映画撮影でもしているようだった。

「駒場東大前」の踏切
田舎の踏切にそっくりだけど「駒場東大前」
「駒場東大前」の階段
中学生男女が落ちそうな階段

 

時間が近づいたので劇場前の列に加わる。その時気付いたのは、「散策などしていないですぐに列に並んでいれば良い席を取れたのに」。わたしは失敗した!!と後悔した。

ただ、中に入ったら、そんな後悔はいかにもケチだった。というのは、選ぶほど席がたくさんあるわけではなかったからだ。いたって小さな劇場で、前から6列くらいしかない。横の人数は10人くらいだろうか。つまり、10人×6列で60人程度しか入れない。(不正確の可能性あり)
なので、どの席に座っても舞台が遠くなる、ということはない。

むしろ、こういうのが、演劇無知のわたしが当初イメージしていた舞台で、東京芸術劇場とか渋谷のbunkamura、あるいは国立劇場がゴージャスすぎるのである。
狭いことは、少なくとも客にとって不利益なことは何もない、と思えた。

わたしは舞台の上のセット―テーブルと椅子7脚―を間近に、尻の位置と猫背の角度をととえつつ、開演を待った。

舞台内容(ネタバレありなので、これから観る人は読まないでください)

読まずに末尾へ飛ぶ

そろそろ開演、という時間になると、ハッピを着た大工が戸口に現れた。

こっからして緊張は始まった、と言っていいだろう。

この男、明らかに日本人の衣装を着ているので、日本人だろう。
婦人が現れて、お座りになってと声をかけた。この婦人も和服を着ているので、日本人だろう。

これは困った。日本人ではなくて、大工の男が朝鮮人ならば、この後、着席しているところを家の者にみつかって怒鳴られる、という展開がひとつ予想できるが、日本人ではどうなるのか。

しかも、この大工の男、7つある椅子のうちの一番隅っことはいえ、座ってしまった。

「馬鹿、なんで座るんだよっ、座っていいと言われても座っちゃだめだよ」

と、わたしは内心もだえた。こんな時、わたしなら座らない。
ここの金持ちの一家(この時代にこれほどのテーブルセットを備えている家なら富裕に決まっている)の主人が、貧乏人や雇われ人に対して、何を言い出すかわからないのだから。

こっちがハラハラしていると、婦人はお茶やお菓子も持ってきた。

ひょっとしたらこの大工、「自分は朝鮮人ではなく日本人だから」という特権意識で座ったのかもしれない。たった今の今、思いついたのだが。

その時のわたしはそこまで思いつかなかったので、ただハラハラしていた。そして、やたらと長い時間が流れた。ハッピの大工は観客に背中を向けて座っている。ハッピの背中に何と書いてあるのかも気になった。椅子の背もたれに隠れて見えないのだが、ハッピには漢字が書いてある。それが見えない。

ともかく、相当に長い時間が流れた。大工は何の用事があるのか知らないが、ずっと座っている。ときどきポリポリ煎餅をかじる。

この時間に、いろいろな考えが頭をめぐった。
「このあと、日本人の醜悪な支配欲が赤裸々に表現されるんだろうなあ」とか「朝鮮の人が理不尽におとしめられるのかなあ」「怒るんだろうなあ」「殴ったり蹴ったりはないとは思うけど」「朝鮮侵略の話しだから覚悟しないとなあ」「なんか、イヤだなあ…帰りたいなあ…」

が、ここで帰るわけにはいかないので、尻と猫背を直して見続けた。

とこの時、心臓が止まるかと思った。静けさを破って「熱いお茶をいれてくれー」と誰かが怒鳴ったのだ。
姿は見えず、男の声。
セリフからして、女中か、もしくは妻に言ったと思われる。
大工の男は自分が言われたわけではないので、動じてないように見えた。
ただ、不機嫌のトバッチリがくるかもしれないので、身構えたかもしれない。

結果として言うと、「お茶をいれてくれ-」というこの時の高圧的、支配的、感情的な声が、この芝居で味あわされた、唯一のイヤな思いとなった。

この後、舞台では朝鮮に住むとある日本人一家(篠崎一家)の会話がずーーっと続く。
引用したとおり、「悪意なき市民たちの罪」と言えば言えるだろうが、わたしはあんまりそんな感じはしなかった。ふつうに愛すべき人たちに見えたし、楽しい会話や出来事だった。

途中、長女の篠崎愛子が「朝鮮語は文学に向かない」だの「朝鮮人だってやれば文学をやれないこともない」みたいな見下したセリフを「悪意なく」得意になっていうのは、もちろん支配的者目線で「罪」なんだが。しかも、朝鮮人の女中の前で言う。確かにひどい。

とはいえ、これくらいの「悪意なき罪」は朝鮮人相手でなくても日常的にあるのではないだろうか。たとえば夫婦間とか。たとえば同僚の間でも。ただ、これはわたし自身が、どぎついネトフリドラマとかマンガに慣れすぎてしまったゆえの感覚の麻痺かもしれない。あるいは、わたし自身が支配者目線の人間なのかもしれない。が、嘘を書いてもしょうがないので、正直に書いている。

女優たちが良い演技をしていたと思う。印象的だったのは、次女の幸子の声やセリフの感触だ。女であることを恥じているような、無理にでも男まさりでいようとする心理が面白かった。それを揶揄う叔父や兄も「悪意なき男性性の罪」で、愛すべき(かどうか微妙な)アホどもと言える。

しかし、この芝居を見事な物にしたのは、最後の父のセリフだろう。
お祖父ちゃんの喜寿のお祝いに撮った、一族の集合写真。
皆がこれを見ながら、わいのわいのと互いの写り具合について感想を述べあう。次女などは、写真を見るために観客に向かって尻を突き出している。観客はなんとなく動揺する。

このタイミングで父が謙一の写りについて言う。謙一は、朝鮮人の女中、淑子と先ほど駆け落ちしたばかりの長男。
「いつもヘラヘラしているくせに、写真を撮るときだけ、悲しい顔するのな。」
ズルッと表面の皮膚がはがれて、赤い肉があらわになった瞬間だった。
心という名の赤い肉が。

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(末尾)

そんな感じで、わたしが観た日のこの芝居そのものからは、支配ー被支配についての考察を得るのは難しかったが、演劇の醍醐味をあじわうことができた。セリフ、その声の出し方、重なり方、時間がもたらす効果、さまざまな仕掛けで動かされる自分の心。

演劇とは舞台の上で、ただ何か喋ったり動いている、というだけのものではない、のであった。

役立ち情報

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