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ART(劇)

作:ヤスミナ・レザ
翻訳:岩切正一郎
演出:小川絵梨子
出演:イッセー尾形、小日向文世、大泉洋

観た場所:長野県松本市「まつもと市民芸術館」
観た日:2023年7月15日(土)18時~

当方の場合、アンテナの張り方が下手なのか、こんな良い舞台を危うく見逃すところだった。
『ART』の公演スケジュールは5月に東京から始まって6月中旬大阪、後半福岡、7月初旬愛知ときて、7月15日16日に松本市「まつもと市民芸術館」で終演を迎える。
わたしがこの劇に気付いたのは5月で、すでにして東京のチケットは売り切れていた。大阪福岡愛知は多少残っていたが遠すぎた。残るは長野県松本市だが、やはり遠い。路線検索で電車代がバカ高いのを知り、諦めた。のだけどあとで高速バス、という手段を発見し(往復で8000円弱)エイヤッーっと購入ボタンを押していたのであった。

さてさて、舞台の内容は英語版wikipedia、Art_(play)に詳しく出ているのを(翻訳して)見て頂くとして、あえてわたしも説明すると、
登場人物は三人のみ。100センチ×130センチの白い絵を500万円で買った皮膚科医のセルジュ(小日向文世)と、それを知って呆れ果てセルジュに難癖を付け出して止まらないマルク(イッセー尾形 )と、結婚を間近にひかえ、相手の女性のオジさんが経営する文房具店で働く、絵に関してはどっちつかずのイヴァン(大泉 洋 )。

三人は15年来の友達なのに、1枚の白い「ロバート・ワイマン」の絵をめぐって葛藤を深めていき、さらに絵から派生して互いの性格やら配偶者のことまでいいはじめ、完全に友情が壊れるところまでいく。それを、三人は長い長いセリフの応酬で体現していくのである。途中途中に、応酬のみならず、観客に向かってのセリフも入る。

あとでパンフの写真で見ると、大泉洋とか随分と苦悶の表情を浮かべていたんだなぁと感心したが、わたしの席は遠かったので、表情まではわからなかった。ただ、それで不自由ということはなく、十分に声やセリフで伝わってきた。実は、この舞台、事前に観客に双眼鏡を配っていたのであるが、わたしは到着がギリギリだったせいか受け取れなかった。

たぶん、双眼鏡は役者を見せるというより、白い絵をよく見せるために配られたのだと思う。というのも、白い絵は完全な白というわけではなく、多少は薄い線が入っているらしいのである。

当方も必死で目を凝らしたが、線の存在は確認できなかった。その変わり、キャンバス面が多少デコボコしている気はした。が、先日自転車で転んでメガネも歪んでしまって、視界自体がデコボコしているため、そのせいかもしれなかった。というか、それ以上に致命的なのは、「現代アートのロバート・ワイマン」なる存在を知らなかったことだろうか。

「さすがにそんな真っ白い絵はないだろ」とばかり思って観ていた。

ただ、そんな無知も、大して鑑賞の妨げになったわけではない。三人のセリフの中にときおり現れる「ロバート・ワイマン」を知っていても知らなくても、「現代アート」というのが良いんだか悪いんだかワケわからないのは分かるからである。ワケわからないくせに権威の圧が強いことも。

マルクは、自分が啓蒙してきた二人(特にセルジュ)が、自分から独立した価値観を持ち始め、先日などは「脱構築」などと言い始め、自分が「脱」される存在となったかのように焦り、怒りに唇を震わせるのであった。

むろん、友情が、支配被支配、啓蒙被啓蒙の関係であるはずはないのであるが、マルクという奴にはつきつめればそういう心理もあったのであろう。

そんな中大きな見せ場がやってきた。イヴァンの実の母と育ての母と婚約者についての長い愚痴だ。愚痴ってのはもともとグチグチと長いものであるが、今回の愚痴は二時間くらいかかる愚痴を10分くらいに圧縮した超絶早口なやつで、とても素人が真似できる愚痴ではない。愚痴り終わった後は拍手喝采だった。

そんなでとうとう限界まで煮詰まった三人。誰かが「絶交だ!」と叫んで部屋を出て行くか? となりかけたあたりで、セルジュがこう言い出した。

「それならこの絵にマルクが好きな絵を描くがいいや」 ←大意。

えええっ! 500万円の絵に落書きをしても良いと? 「フェルトペン」を手に取って立ち上がったマルクを、イヴァンが「バカなことはやめろ」と制止する。観客も描くの描かないのかどっちだろうと、固唾を呑んで見守った。

マルクは、案外とテンポ良くさささっと描いてしまった。

斜めの長い線と、その斜面をすべる丸っこい人物を。

丸と線だけの簡単な絵であったが、「やっぱこの方がいいじゃん! ただの白いのより、何か描いてあった方がいい!」とわたしは鮮烈に思った。これこそがアートじゃんかと思ったし、アートが生まれた瞬間に立ち会った気持がした。
マルク(というかイッセー尾形というか)の描いた落書きがチャーミングだったこともあり、ここでも拍手が起きた。

実は、セルジュは「フェルトペン」は消える、ということを事前に知っていた。だから「描いてみろ」と言えたのであった。で、すぐに消してしまった。また真っ白い絵に戻った。つまり、500万円の絵は無事だった。それとも、芸術は無事だった。消えると知っていたのかどうかと、三人はごちゃごちゃ言い合っていたが、もはやどうでも良くなっていた。というのも、さっきまでのケンカがなかったように、友情破滅の危機は去っていたから。

マルクはあれほど貶しまくっていた真っ白い絵に、今度は穏やかな口調で物語をつけた。

これは、男が現れ横切って消え去ったあとの絵である、と。 ←大意。

そう言われると、現代アートの権威の圧は消え、確かにそう見えるし、実際そうだった。三人の人物の中心で一枚のキャンバスがいろんな絵を見せてくれた、という感慨とともに幕は閉じたのであった。



info

調べるとロバート・ライマンは正方形の絵しか描かなかった模様。わたしがロバート・ライマンという名前を補足できたのは、ARTのパンフレットを読んだから。画家の「千住博」氏がコラムを寄せていた。

アメリカの現代アートの巨匠の一人にロバート・ライマンがいる。
彼の作品は白いキャンバスを白く塗るだけだ。様々なタッチで、白く絵の具が塗り込まれた白いキャンバス。
花も山も描かれている訳ではない。
これでいいのだろうか。
ただその“作品”には、とてつもない説得力がある。

中略

 アートとはものごとの見えない、聞こえない本質を見えるように、聞こえるように浮かび上がらせようとする不屈の行為なのだ。

そしてそれがトリガーとなって、社会生活の中で封印されていた、見えない聞こえない個人の本当の意識や、置かれている状況や環境、自己と社会のゆがみのようなものを見えるように、聞こえるようにして、鏡のごとく映し出してしまう。

それを更に先鋭化させたのがいわゆる現代アートと言える。

中略

 そうやって考えると、ロバート・ライマンの白い作品は、色彩に惑わされず、タッチや筆力、そして白一色でも実に雄弁に語れる絵画の原点を示しているとも言える

後略

「自己と社会のゆがみのようなものを見えるように、聞こえるようにして、鏡のごとく映し出す」か。少しだけ現代アートに詳しくなった気がする。