『兄を持ち運べるサイズに』

映画友達のWさんと『兄を持ち運べるサイズに』を観に行った。Wさんとばっかよく行くなあって感じであるけれどこの映画を教えてくれたのもWさんなのだ。ここ最近Wさんのディカプリオわたしのオダジョーという分担で映画を観てるので、他の映画を見損ねないよう気をつけようと思ってる。

そのWさんが『兄を持ち運べるサイズに』を観終わったあとスゴイ事を言った。「オダジョーってどの映画でも同じヒゲと同じ髪型だね」

これには吹き出した。え? そうだっけ? そういえば思い出したらそんな気がする。共演者の柴咲コウも満島ひかりも、ちゃんと役にふさわしい髪型やメイクや服装をしていた。オダジョー演じる「兄」はオダジョー演じる他のやつと一緒やんか? たぶんオダジョーさんの場合、役のせいで私生活まで気に入らない風貌になりたくないんだと思う。

わかんないけどそんな気がする。まあそれはともかく本編。『兄を持ち運べるサイズに』というより『兄を半地縛霊に』と言いたいくらい死んでるのに登場してきてびっくりした。もしくは『兄が見えちゃうんだもん』とか。死んで取り返しがつかないから苦しむのが現世なのにカジュアルに出てきてくれるので、大変気楽に見れた。週末の夜にちょうどいい映画。

しかも決して退屈しない。柴咲コウのドアップを映してる時間長過ぎないか? とか思ったけど、顔の変化で微妙な感情を表現しており、観客はその感情が何なのかを想像しながら見れるのである。想像する、すなわち死者を見るのと原理的に同じことを映画を見ながらできるってわけだ。

ただ観終わると「なんで理子ちゃん(柴咲コウ)、あんなに兄に怒ってたんだっけ? いいお兄ちゃんなのに」とわからなくなった。あと、「お兄ちゃんと私が逆の立場だったら私を助けてくれた?」「当たり前だろ、全力で助けたさ」も、いまいち意味がわからん。そら「助けたさ」と言ったのは妹の想像上の兄なのであって本当の霊魂ではない。ではないけど、自分は助け渋ったのに、その質問の意図がわからない。助け渋ったのを責めるわけではない。金の無心など誰がされたいかって。「全力で助けたさ」という答えを想像上で聞くことで救いを得た? 許しの気持ちをもてた??

たぶん、ここらへんのモヤモヤは原作ではこなれているものなのだろう。タバコを吸う以外はお手本のような良き市民ばかりなのに対し(タバコもやめるそうです)、そうはなれなかった兄がいち早く死に、思い出の人になってしまった。ちょっと複雑な気分にはなりますわな。