「色覚多様性のある方(かた)」なんていう言い回しは日本語として変なことに気づいて!!
なぜ学校の「色覚検査」はなくなった? “色覚異常”や“色覚障害”から呼び方も変化、理由を眼科医が解説
↑この記事では「色覚異常」「色覚障害」という名称をなぜか「色覚多様性」と言い換えてしまっているのですが、それはあまりに変な日本語です。
「色覚の多様性」というフレーズは、人間社会を構成する人々(日本なら1億人とか)の、色の見え方は同じではない、という事象を指してのこと。
一人の人間の色の見え方をもって「色覚多様性がある/ない」 とはいわないですね。
そこを言いたいならば、インタビュアーが部分的に書いているように、「色覚特性」という言い回しのはず。
もともと「色覚特性」という言い方は、それまで普通に言われていた「色覚異常」という言い方への批判精神から、名古屋の眼科医、高柳泰世氏が提唱したものです。
高柳氏は、色覚異常(色盲、色弱、色覚障害、という言い方もあり。ドルトニズムというのもあり。)は「異常」ではなく、個性なんだと主張しました。
わたしも大賛成です。ただ、この個性、何の苦労もしない個性かというと、そうではないのです。高柳先生はもちろんそれは誰よりも分かっていました。ですから、従来使われていた石原忍という帝京大学の眼科医が作った(色盲の友達の協力をあおいで作ったもの。『石原忍の生涯』という本に書いてあった)石原式色神テストではなく、代替案として、カラーメイトテスト、というのを考案しました。
カラーメイトテストは、石原式のような、個人情報をハダカにするような醜いものではなく、大変スマートなものです。わたしも書籍として持っています。当方はこれを誰かに試したことはありませんが、少なくとも、わたしの息子(色覚特性)なら、十分にスクリーニングテストとして機能すると思います。
ただ、この方法は、学校における色覚テストとして採用されませんでした。わたしは当時、それをとても残念に思った者です。なぜなら、小学生くらいの時期から、色覚の個性を把握しておかないと、とても孤独でつらい思いをする可能性があると推測できたからです。
学校の色覚テストは、「なら廃止」とばかりに、一律に無思慮にいっせいに廃止になってしまいました。
そして近年、その責任が、あたかも高柳氏らにあるかのような、世論操作が行われている、と感じます。
石原式テストへの批判は、人間主体ではなく医学や科学や東大といった権威主体への批判でもあったのです。
当時の「科学者」や「眼科医」が、どれほど偉そうに「お前は異常なんだ、わきまえろ」と言い切ってきたか、今の人には想像もつかないでしょう。
くだんの記事にもどります。
記事中の、「色覚多様性のある方」とか「画家のフィンセント・ファン・ゴッホも色覚多様性があったとされていて」とかの、不自然な言い回しは、「色覚特性」と言いたくない意志のあらわれにしか見えません。
よほど、高柳氏らを排除したいのだと思います。
このようなことがあるからこそ「色の見え方は皆が同じというわけではない」と、一人でも多くの人に知ってもらいたい。といっても、みんな見え方がバラバラというわけではなく、多数派は形成されています。多数派のかたまりがいて、なだらかに境界はなく、違いが発生している。
「色覚特性」を個人レベルでのみ捉えると、権威がそれを利用し、異常の檻に閉じ込めようとしてしまうのです。眼科なら眼科という領域を過大に誇大視してしまって。
なので、「色覚の多様性」は、社会の在り方を示す言葉だと思います。
個人をゆび刺すものではなく。
くだんの記事で知った「こむどっと」。
の、やまと、の「【本気】遂にやまとが持病の色盲を克服する為に動き出しました」。
じ、持病とわ斬新でびっくらしました。かなりの大物のようです。